800人が亡くなった日にも個人の幸せは感じられる
昨日、イタリアでの死者が600人を超え、「戦時下のようだな(身をもって知らないけれど)」と思っていました。
本日3月21日は793人です。
家の中にいて、ふと気づいた時に数えただけで救急車が7台通りました。
もうミラノでは州や街が封鎖されて3週間近く。
あれよあれよと言う間に外出禁止令が出され、散歩にすら出れない。警察がパトロールしていて違反していたら罰金です。(日本円にして2万5千円くらいです。)
仕事は業種によって休業もしくはリモートワーク。学校は保育園からすべて完全に休校。24時間毎日毎日ずっと家に閉じ込められる子供たち、特に乳幼児は何も分かりませんから、泣きわめいたり暴れたり、昼寝をしなくなったりします。そんな子供達と同じ屋根の下、慣れないリモートワークをする父親。
毎日、増える死者の数を聞きながら。ひょっとしたら自分の身に起こり得ることを思いながら。
家族がいても大変、一人暮らしなら当然、不安と孤独に押し潰されそう。
病床やスタッフ、医療資源が追いつかずにどんどん死者が増える一方、低リスクの大勢の人々もジワジワと迫りくる日常のストレスと闘っているのです。
根拠のないポジティ部所属が多いイタリア人たちが暗くなっていくを見ていると、このまま死者が増える毎日を、あと1週間も10日間も(一説によるとピークはこのくらいらしい)耐えれるのか!? この毎日がすでにPTSDになってしまう人もいるのではないか、と心配になるほどです。
(と、真面目な口調で現状を書いていたら私も暗くなってきそう・・・いかん!いかんよ!
タイトル「個人の幸せ」の回収をするのだ!)
そう、実は今日、穏やかに幸せな気持ちだったのですよ。それでも救急車の音は2、3回耳に入っていましたが。
なんか急に「子は可愛いし!どうやって楽しませるか毎日悩むけど結局結構楽しいし!夫君は毎日家に居て、なんか私はハッピ〜!」と感じてしまった。
今この時に、医療から見捨てられて亡くなる人がいるこの国で、私は一体どうしたことかと思いました。
「結局、私は日本人なので、日本が大丈夫そうだと感じて気持ちが安定している」
「結局、私は自分と自分の大事な人さえ無事ならそれでいい」
と、頭に浮かびました。
エゴ・・・エゴですね。
所詮、私はエゴイスティック、自分さえよければそれでいい、それでいいんだ、でもそれが生存本能というものなのかもしれない。
っていうか食料、物資があるから戦時下と比べては申し訳ないよ!
ランダムに空襲や爆弾が来るのとは違う。そして、大震災の時のように、あっという間に数千人、数万人と亡くなるのとも違う。違うけれど命が失われるという意味では同じ・・・。
確かに私の住む国で数千人がなくなり、毎日その数が増えていくのです。
でも、シリアの内戦で同じように人が亡くなっても、チベットで迫害が起きていても、それらを事実として知っている私が24時間心を痛めることはない。
結局のところ他人が亡くなっても私の心は完全には痛まないのではないか?
自分の身に起こって初めて本当の悲劇になるのではないか?
そしてそれは悪いことではないのかもしれない・・・。
少なくとも私の今の日常は幸せだ。
そう思ったとですよ。
(でも、今、病院には絶対行けないので、病気になったり事故にあったりしたら一巻の終わり、という恐怖があります。あと、やっぱり自分や家族がかかって重症化したらどうしよう、など、夜うっかりニュースを見ると恐怖心が湧いてきてしまいました、生存本能よ、まだまだやな!)