封鎖中のミラノから イズミふうこの日記

イタリア語と日本語(時々英語)で得る情報は、どれだけ同じなのか?どれだけズレているのか?

イタリア人は失業や倒産では死なない。「コロナショックで自殺者が増える」説について 

多くの人々と同じように、毎日新型コロナウィルスのことを考えている私です。

 

当初から日本で時々出てくる「新型コロナによる経済の打撃で、自殺者の数が感染による死者より上回っては意味がない。だから経済を守るのも大事だ」という意見に、私は基本的には賛成でした。

ごまかしごまかし、ピークのカーブをなだらかにしながら、経済も回していく・・・日本のやり方が一番クレバーで素晴らしい!倒産が増えて自殺が増えたら意味ないもんね。その通り、ジャパン・イズ・ナンバーワン、どうでもいいけど、もう日本に帰りたい!

 

でも、数日前からふと考えていました。そもそも

「経済が打撃を受けると自殺者が増える」っていう前提って・・・正しいの!?

事実として正しいのか?人の在り方として正しいのか? という両方の意味で。

 

「イタリア人は失業したからって自殺なんかしないよー。何言ってんのー?」

という人が我が家に居るので、聞いてみました。

 

私 「でもさ、失業してお金なくて家賃払えなくなったらどうするの?」

夫 「他の仕事するかホームレスになればいいでしょ?」

私 「・・・・(すごく反論したいが浮かばない)」

 

夫 「事業が失敗して倒産したとする。だったら掃除夫でもなんでもして日銭を稼げばいいじゃない? 日本人はそうするより前に自殺を考える。なんていうのかな・・・自殺が ”役に立たない俺だけど、せめて迷惑かけないように自ら死ぬ” っていうポジティブな行為になってるよね?」

 

私 「自殺が良い行為・・・私たちは今でもサムライか!? それってharakiriってやつか!?」

 

確かに、確かにね。

私たちが失業者が増えたら自殺が増える、という前提に疑問も持たないのはなぜでしょうか? よく考えれば、どん底まで落ちてもそれが経済的なことだけならば、普通に生活保護を受ければ良いし、破産することもできる。

生きていけるのは生きていけるし、生きていればそのうち楽しいこともあったりする。

 

でも、社長が事業に失敗したら、持ち家を失ってアパート生活になり掃除夫をして慎ましい生活を送る、というストーリーと同じくらい、借金苦で首を吊りました、という話が自然に思える・・・。

それは「何が何でも生きる」よりも「今の社会的立場(ある程度の上下は許せるが)で失敗するくらいなら死ぬ」っていう方が日本人的にはなんかイイってことなのでしょうか?

 

それはプライド? それとも絶望して他の道なんて考えられないから? ではそこで絶望してしまうのはなぜ?

 

新型コロナの経済的打撃で自殺者を増やさないように経済を守る、というやり方はやっぱり正しいです。日本にとっては一番正しい。

でも、「経済的打撃を受けても死なないようにする」というのが根本的には大事なのではないでしょうか?

 

このテーマはちょっと興味深いな、と思っていて、この後コロナショックとやらが世界的に来る中で、各国の国民性がどう出るのか追いかけていきたいです。